生まれ干支、節目の年に修験道へ。
出羽三山、生まれ変わりの旅。
特別なものを求めてたわけでもなく、
何か感じるのかな…と。
宿坊へ
初日の午後。
三人が広間に集まり、最初に出されたのは、
その時、その場、その人に合わせて選んでくださったというお茶。
一粒のレーズン。
ひとかけらの干しリンゴ。
緊張を残しながら口に運ぶと、甘酸っぱい香りが広がる。
時間の流れや、その土地の空気に、少しずつ身体が馴染んでいく。
夕食は精進料理。
出羽三山の水で育まれた食材が並ぶ。
大きなテーブルに一人ずつ座り、黙食をするという。
丁寧に料理された一品一品の説明を受け、
ただ静かにいただく食事。
お漬物のポリポリとした響き。
口が空っぽになってから、次の料理へ箸を伸ばす。
こんなに食材を味わったことってあったっけ?
冷えていた身体が温まり、緊張が緩んで満たされていく。
「食べる」ってスゴいことなんだな、と
初めて発見した気分。
山に入る
翌早朝 神様へのご挨拶から一日が始まる。
一時間のご祈祷のあと、山へ向かう。
正装して鳥居をくぐる。
先頭を歩く先達(せんだつ)が法螺貝(ほらがい)をふくと、
空気がピリリっと引き締まる。
法螺貝は、遠くの人への合図に使ったり、
熊よけの意味もあるという。
とってもいい響き。
そうそう、
先頭を先達(せんだつ)、一番後ろは殿(しんがり)と言う、
そんな言葉の響きも面白い。
杉の木が静かに立ち並ぶ中、杖をつきながら一列で歩く。
川にかかる橋の上から人形を流し、禊ぎ(みそぎ)を行う。
滝を見上げて手を合わせる。
水の音が清々しい。
お社ごとに立ち止まり、二礼二拍手一礼。
見よう見まねで行っていた所作が、
繰り返すうちに身体に馴染み、
四人の呼吸が揃っていく。
右手に持った長い杖、
最初は、「ツルッ」と滑ったり、「トトン」と跳ね返ったり。
石段に「トン」と静かに置ける頃には、
歩みそのものが落ち着いていく。
一歩、一歩、淡々と。
歩みと呼吸のペースが合ってくると、
「このままずっと歩けそう」な感覚にすらなる。
背中に垂らした組紐が、上半身を自然に引き起こしてくれる。
ご主人が2mの和紙から一つひとつ手で組んでくださったもの。
装束は、体を調えるための装置でもあるのだな。
また、祠ごとに行うお辞儀の所作感覚は素晴らしかった。
二礼をするとき、仙骨が入る。
拍手を打つとき、軸が定まる。
一礼で、全身がひとつになる。
皆で唱える言葉が全身に響く。
所作には一つ一つに意味があり、理由がある。
そして、それらを私が知らずとも、
身体はちゃんと反応していた。
(下の写真はイメージです)
澄んでいく
山頂の出羽三山神社でご祈祷を受ける頃には、
四人の間に流れる空気が静かに澄んでいた。
ご祈祷殿では一般の参拝者の方々も多くいらして、
少しザワザワしていたけれど、
私たちの周りは不思議な静けさ。
普段の私は、
周りを伺ったり、
ソワソワしたり、
どちらかといえば「あちら側」の空気感。
なのにこの時は、
まるでスノードームで舞い上がっていた雪が、静かに沈殿したように、
頭の中の雑音が静まり澄んでいた。
今ここにあるものを、そのまま静かに受け取っている。
ただただ、静けさが満ちていく。
自然との調和
山も自然。
風も自然。
そして身体もまた自然。
修験道で耳にした
「自然と調和すること」。
それは山々の自然と、
自分の中にある自然との調和でもあるのだと思う。
所作や装束、食事の一つ一つにも
身体がちゃんと反応している と気づけたのは
私にとって嬉しい発見。
羽黒山で過ごした時間は、
日本人が古くから大切にしてきた身体の知恵や感覚が、
今も身体の奥に息づいていることを思い出させてくれました。
